ぼやき人生道中

2009年09月20日(日)
【ロックについて】


【コラム】 ロックにとっての「自由」とは 問われ続けるライブマナーの是非
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=966691&media_id=44

本文転載
■2009年7月31日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2009

「ロックなのに良い子でどうすんの?」
 KEN YOKOYAMAは、ステージ上からそう言い放った。言葉に呼応した観客の間に、たちまちモッシュ・ダイヴが巻き起こる。それは挑発だったのだ。目の前の観客と、主催のロッキング・オン社へ向けての。

YOKOYAMAが観客を煽動した理由。それはROCK IN JAPAN FESTIVAL(以下RIJF)において、今年から執られるようになったルールに起因する。すなわち、禁止行為であるモッシュ・ダイヴに対して課す、退場という厳重な処分のことだ。

 激しいビートに合わせ、観客同士がお互いの体をぶつけ合うモッシュ、群衆の頭上に身を投げ出して、転がってゆくダイヴ(クラウドサーフとも言う)。これらはもはや、ロックのライブには付き物の行為だが、その荒っぽさから、けが人が出る場合もしばしばだ。
RIJFに限らず、ほとんどのライブ会場において、モッシュ・ダイヴは禁止行為とされている。しかし実際は、規制を謳いながらも黙認され、具体的な処罰が下されることはほぼない。
 そんな中にあって、RIJFで執られた退場という措置は、異例と言えるだろう。ロッキング・オン社がこうした重い処分を執ることにしたのは、同社が主催する冬フェスCOUNTDOWN JAPANにおいて、後遺症が残るけが人が出たことによるという。
 ロッキング・オン社の措置は、観客の安全を最優先した結果のものだ。しかしながら、この措置は、観客にも、出演するアーティストにも波紋を呼ぶことになった。

YOKOYAMAは、RIJFにおける禁忌を犯した。しかし、そのパフォーマンスの直後、フェスのプロデューサーのひとりである山崎洋一郎氏は、彼にこう告げたという「あの場で闘ってくれてありがとう」そして、「今後もこの場で闘いを続けて欲しい」と。
 また、山崎氏は、YOKOYAMAのコラムを受けて、自身のブログでこう返した「横山健のコラムに書かれているいきさつと彼の戸惑いや苛立ちは、まさに『模索』してくれた証だと思う。でも、答えはでなかった。いや、KEN BANDとしての答えはすべてあのステージの経過の中でリアルに出ていたが、でも、それは彼ら自身にしこりを残し、お客さんに戸惑いを残し、僕らに課題を残した。」(山崎洋一郎の日々ロック通信)
 フェスとは、ロックの表現とは、どうあるべきなのか。誰もが模索している。アーティストも、観客も、フェスの主催者側も。

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僕からの主張は二つある。

まずロックの反体制という性格について考えたい。
僕はロックンロールの二大要素は「前世代の否定」と「帰る場所の無い音楽」だと考えている。
つまり既存の社会(前世代の価値観)の中にいる何者でも無い自分(たちの世代)が自らを定義するためにロックンロールは誕生以後、拡張を続けているのだ。
だからこそ、反体制という性格はあって然るべきものであるだろうし、過去の偉大なアーティストによって巨大な権力(国家、資本)との戦いが神話化されてしまってる以上、そこを踏まえていくのは仕方がないことであるのだとは思う。
しかし、そこには二つの大きな矛盾がある。

1.ロック自体が資本化されていることの矛盾
2.反体制の形骸化

1についての主張だが、僕としてはロッキンオン・ジャパンの編集長である山崎洋一郎氏は横山健について肯定的な言葉を並べる必要は無かったと思うし、それをすべきではないと思う。
mixiの同ニュースの引用日記で(恐らくは知識のひけらかしであろうが)「ウッドストックの時代とはもう違うんだな」なんて言葉があった。
当たり前だ。
まず確認しておきたいのは、ウッドストック・フェスティバル並びに過去のロックがありえない美化をされていることを我々は認めねばならないということだ。
ヒーローを必要としたり、巨大なムーブメントとなることが特徴であるロックなので、現在進行の中でそれは逃れざるえないものではあるが、過去の歴史を踏み越えねばならないのは明らかじゃないか。
そりゃ、僕にも67年というターニングポイントへの憧れはあるし、リアルタイムでツェッペリンを聴いてぶったまげたと語る渋谷陽一を羨ましく思うこともある。
けれど、発展段階にあったロックを急成長させたものが何であったかといえば、既に金を握っていた連中の新たな金儲けとしてロックが選ばれたからじゃないか。
ウッドストックが無料化されたのも、あまりに人が集まりすぎて暴徒化するのを恐れたための緊急手段だったのだ。
ジャニス・ジョップリンやザ・バンドが出演するフェスティバル・エクスプレスでこんな一幕がある。
アメリカ〜カナダを列車でミュージシャンたちと回りながら各地のフェスに出演させるというイベントの主催者がインタビューで「ウッドストックのせいでめんどうなことになってる。どこにいっても『フェスを無料化しろ!』とうるさいんだ。俺や出演者に飢え死にしろというのか。○○市に訪れたときには市長が無料化しろなんて言いやがったから鼻を折ってやった」
こっちの方がよっぽどロックだ。
ちなみにこのDVDでは、列車の中で毎晩行われるパーティの酒に、誰かがドラッグを混入させたせいでアーティストがみんなベロベロになるという最高な映像が映されてる。
是非見て欲しい。

脱線してしまった。
つまり僕としては主催者側はあくまでも企業であり、ルールでなければいけないと思うのだ。
山崎洋一郎がロックンロールというものを愛してるのはわかる。でなければ、音楽評論家なんて仕事は出来ない。
けれども、彼は最早、企業側の人間であり、ロックを信望するものを子どもとするなら、大人の立場でなければいけないのだ。
利益優先、安全面の考慮、社会の大人の約束事、何が悪い?
それに疑問視をし続けるのがロックンロールだろ!
田中宗一郎が言ってたんだ。
「ステージに近づこうと前に進んでいって、警備員に殴られて、また前に進もうとする。そういうカルチャーだよ」と。
反体制とは体制が無ければ成立しないんだよ。
ロックリスナーに嫌われることを覚悟で、ロックのために、山崎洋一郎氏には企業側の立場でいて欲しい。
俺たちはガキのまんまでいるから、あんたらには大人であって欲しいんだ。
いつか否定してやるから。
納得させてやるから。

問題点その2.反体制の形骸化

はっきり言って、ダイブがなけりゃとか、モッシュがなけりゃみたいなのが気持ち悪い。
日本のバンドが日本のリスナーとライブでサタニック・サインをしてるのとかも、サブいなと感じてしまう。
それは最早スタイルだ。
時代の流れによって中身なんて流れきって空っぽになったスタイルだ。
もちろんスタイルというものは大事なんだけども、果たして今の僕らにそれらがリアルであるかといえば首は縦に振ることが出来ない。
2000年代の日本において最も反体制であったのは、歳くった清志郎でもなく、ミスチルの桜井でもなく、「あえて抵抗しない」と歌ったゆらゆら帝国だったと思うもの。
最近の日本でテロを行ったのは社会主義者でも無政府主義者でもなく、新興宗教なんだ。
政府やマスコミは適量のエサを国民に撒きつつ、不満がたまればそのベクトルを操作して、自分たちの都合の良い法案を通したり、政権を変えたりしてる。
金は金持ちが稼げばいい、それを後で分けてやる。後は自己責任だ。
こんな世の中で抵抗してる奴らはサイレント・テロという手段を選んでる。
つまりヒキコモリ・ニート。
無意識なんだろうけども、ゆらゆら帝国は意識的にした。
「あえて抵抗しない」

いくら新自由主義が進んだからって、最低でも高校にはいけてた奴らが、奨学金やら努力をすれば大学にだっていける奴らが、ましてや普通に親の金でいける奴らが、なぜに「ファック」と言ってるんだ?
いや、何に「ファック」と言ってるんだ?
それもわからずに過去のスタイルをカッコつけるだけでろくに考えもせずに、自分の怒りや悲しみと向き合うことも無く、突き立てた中指が何より「死んだロック」の象徴なんだ。
十代なら憧れだけで動くのもいいさ。
社会に参加してるんなら、自分の姿を知ろうよ。
俺も努力中だよ。

15:27
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