2009年09月18日(金) 【個性の扱い〜「錯綜する私」】 大学の教職の授業のために書いた文章をUPしておきます。これは僕が結構前にここで書いた「個性論」を簡略化し、教育に焦点を合わしたものと言えるでしょう。 「錯綜する私」 受験戦争の弊害や校内暴力が問題化され始めてから、国による教育への手直しの際、頻繁に使われている言葉があります。それは「個性」という言葉です。年々重要視されてきている「個性の尊重」というタームは人権問題、競争社会における個人の優劣、もしくは近年のフリーターやニートといった就職しない若者の増加に対する策として現れたと言えるでしょう。「私の将来の夢」を幼児のころから何度も書かせるようにしたり、職業体験をさせたりすることが象徴的で、今は廃館となっていますが「私のしごと館」という職業体験施設が国により作られたこともその一環だったと言えます。 もちろん「個性の尊重」というものは大事なものではありますが、果たして大人から子どもへ「個性の要求」をするのはいかがなものかというのが僕からの主張です。子ども、特に思春期というのは、むしろ自己の形成のための期間であり、それは早急にするものでもなく、他人から与えられるものでもないはずです。「個性の要求」はむしろ子どもたちの個性を一元化する危険もありますし、個性というものを発見できない、もしくは発見できていないと思って悩む子どもたちを生み出しもするのです。 そう考えれば「私」というものは教師という立場から見守ってあげるべきものであり、今のむしろ個性を加工するような風潮に対し、ゆとりをもった態度で、成熟に時間のかかる子どもたちに我慢強く付き合っていくことが大切というべきではないでしょうか。ゆとり教育というものは、それを実施する側がゆとりをなくしているのが現状なのです。 子どもたちをとりまくすべての刺激は、子どもたちそれぞれの「私」に関係してきます。膨大な情報と、大人たちの思惑にかき回された、子どもたちの「錯綜する私」に寄り添う形の教育現場が今、必要なものあると僕は思います。 14:53 コメント(0) [コメントを書く] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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